70年前に遺された絵

ツブヤキ#225

高鍋町美術館で開催されている「未完の夢 戦没画学生慰霊美術館「無言館」展」に行きました。

無言館とは、長野県上田市にある美術館で、太平洋戦争で戦死した画学生たちが遺した絵画や作品、道具、そして手紙や当時使用していた生活用品などを展示しているそうです。

その無言館からはるばる宮崎にやってきた作品たち。

会場には、画学生が描いた絵や道具、その傍らにはそれぞれの画学生が生前どんな人だったか、そしてどのように無くなったかを短く説明したプレートがありました。

好きな風景を描いた絵、家族を描いた絵、好きなものを描いた絵。
どれも素晴らしく、彼らが本当に絵を描くことが好きだったことがわかります。

有名な画家の小野竹喬氏の息子さんの絵もあり、息子さんが画家を志しながら戦死していたことを初めて知りました。

絵というものは本来先入観無しに楽しむもので、場合によってはその背景となる情報を踏まえて異なる見え方を楽しむこともありますが、この「無言館」の絵は、「戦没画学生が描いた」という背景をどうしても意識してしまいます。

兵として招集され、ある人は戦地から帰還して再び絵筆を取るという希望を抱いて、ある人はもう二度と戻ることもなく絵を描くことも叶わないと覚悟しながら赴任直前まで絵筆を握り、そして戦地に赴きました。そしてほとんどの人が20代という若さで亡くなります。

兵になりたかったわけでもなく、絵を描くことが好きで好きで、多くの人は画家をも志していたのに、そんな時代に生まれてしまったばかりに否応なく兵として集められ、戦うよう命じられ、そして命を落とさざるを得なかった、一人一人の普通の若者たち。

彼らは単なる軍の一駒として戦場に送られたけれども、これらの絵を見ていると、そんな彼らにもそれぞれの生活があったことに改めて気づき、どんな思いで戦時の生活を送り、絵を描き、そして戦地に行ったのだろうかと、思い巡らしました。

ふと、ある人の死亡告知書に目が留まりました。

告知文は、亡くなった方の名前や亡くなった日時・場所などを手書き記入する部分は空いていて、その他の部分は印刷されていました。

戦死者があまりにも多いために事務の手間を省くために大量に刷られたと思われるその紙には、お悔やみの文で哀悼の意を表するわけでもなく、連絡事項を淡々と記したその文面に冷たさを感じ、衝撃を受けました。人の死というのは、そんなにも軽いものだったのか、と。

これらの絵を描いた画学生たちは、自分の絵がこんな形で多くの人に見てもらうとは思ってもみなかったことでしょう。一つの芸術作品として、先入観無しに見てもらいたかったに違いありません。

しかしそれでも、こうした形で多くの人の目に留まり、何かを感じてもらえることは、無念のうちに亡くなった彼らの慰めになるだろうか、と思いました。

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