読書の時間 #394
南洋と私
寺尾 紗穂 リトル・モア (2015)
2016-1-28
第二次大戦で日本に占領された南洋(ミクロネシア)の島々。
そんな歴史があっても南洋の人たちは親日的といわれますが、寺尾さんはその「南洋は親日的」ということに違和感を感じ、実際に南洋の島々を訪れ、当時そこに住み占領や戦争を経験した人たちを訪ねて当時の様子や思いに耳を傾けます。
海を渡ってやってきた日本人とともに働き、学び、日本語で話す。
いまでも日本語で話ができるし、当時の日本の流行歌も歌える。
日本本土からやってきた軍隊や民間人の人たちとともに朝鮮人、沖縄の人たちも共に暮らす中で、現地の人たちは教育を受ける機会を与えられながらも彼らの手足となって働いた現実がありました。
私は、南洋の人たちが親日的であるのは、中国や朝鮮と違ってこれまでの歴史の中で日本とのつきあいがあまりなかったからではないか、とか、日本の国力の強さゆえにそのようにつき合うのが得策であると心得ているからではないか、と勝手な想像をしていましたが、そもそも親日的なのか?という問いを突きつけられると、「親日的とは何か?」という思いに達します。
寺尾さんが学生のときに、たまたま読んだという「巡査の居る風景」という一冊の本。
京城(ソウル)を舞台とした話は南洋へと及び、そこから「南洋」のイメージが変わったことがきっかけで、寺尾さんは何年もかけて「南洋」について調べてきたのです。
そして訪れたサイパンで案内された南洋寺跡に立つ石碑に刻まれた「青柳貫孝」の名前から、日本から遠く離れたサイパンでかつて住職をしていた青柳氏の足跡を追い、日本人とサイパンの人たちとの関わりから、当時の南洋の様子をさらに明らかにしていこうとします。
「・・・アメリカと日本が戦争して家壊したりしてわれわれを人形みたいに弄んだ。辛かったよ、涙が出るよ。本当に日本によく見てもらったけど、ほかの人々は可哀想だよ。勝手に日本とアメリカが入ってきてね。・・・私は(日本に)感謝はしているが、可哀想だよ。その気持ちをみんな知らないんだな。」
当時日本でも勉強し、多くの日本人知人がいるというサイパンのブランコさんの言葉が、当時の思いを口に出して言えない他の人たちの言葉を代弁しているようで、気持ちを揺さぶります。
親日か、そうではないか、からだけでは窺い知ることができない、さまざまな思いがそこにあることを感じます。
南洋の人々が日本に親みを感じてくれればそれは嬉しい、しかし、こういう歴史があり辛い思いを抱えながらも、それでもなお親しみを持ってくれるということを、忘れてはいけないのだと思います。
カテゴリー:世界の文化と歴史