#38
「隣る人」であること
ポレポレ東中野にて、「隣る人」という映画を観ました。
「光の子どもの家」という児童養護施設での日常の暮らしの様子を撮ったものですが、ナレーションも無し、BGMも無し、字幕も無し。
ただただ「光の子どもの家」での子どもたちの日常を撮って、その映像をつなげただけ。
でも見ていくと、この映画は余計な説明など不用なんだ、この子どもたちの日常の姿を見て、見た人が思い思いに感じることが大事なんだ、と、思いました。
最初は子どもたちの共同生活を延々と見て、ああいろいろな子どもたちが一緒に暮らして楽しそうとか、保育士さんと仲良くしてるな、とか、まるで本当の家族みたいだな、とか、見たまんまの感想が浮かびます。
しかし、ずっと見ていくと、一人一人の子どもが、保育士さんをママと慕いながらも実の親のことを想い、時に心の中で葛藤しながらその心情をふとした時に吐き出すような、普通の子どもでは見られない複雑な心情もちらちらと顔をのぞかせるのです。
うちのチビが里子として我が家に来る前、里親研修というのがあって、その一環で児童養護施設を見学したことがありました。
子どもたちは会えばちゃんと挨拶して礼儀正しいし、小さな子供たちもお客さんが来たというので部屋からぞろぞろ出て来たり。
施設の子どもたちはいたって普通に育ち、勉強も優秀な子どもも多いといいます。
でも、家庭で育つという経験が無く「安心感」というバックボーンが不足したまま育っているので、社会に出たり結婚したりするとうまくいかないケースも多い、と聞いたことがありました。
ですから、それまでは施設の子どもたちは「少しかわいそう」という本当に良くない偏見が少しありました。
ここ「光の子どもの家」は普通の児童養護施設とは少し違い、保育士さんが交代制で子どもたちの面倒をみるのではなく、出来る限り「普通の家庭」に近い暮らしをするため、一人の保育士さんが担当する子どもを朝から晩まで変らず面倒を見ているそうです。
だから映画を見てると、本当にこの保育士さんたちに自分の時間はあるのだろうか、と心配になります。実際、「光の子どもの家」で働いてもすぐに辞めてしまう保育士さんも多いそうです。
しかし、保育士さんも子どもたちも家族としてお互いに楽しく過ごし、ぶつかりあい、慰め合い、子どもたちが保育士さんを「ママ」と慕い、こういう形ではあるけれどもずっといっしょに寄り添っている姿がここにはありました。
映画が終わった後、続いて刀川和也監督とNPO法人不登校新聞社「Fonte」編集長の石井志昴さんのトークがあり、その中で刀川監督が、「隣る(となる)人」とは、「光の子どもの家」の理事長の菅原さんが造った言葉で、「隣」という言葉を現在進行形で「隣る」という言葉にして、ずっと隣にいる存在の人を意味している、というようなことを言っておられました。他人同士であっても、家族のようにお互い気持がつながっていれば、隣る人。
家族って何だろう、と本当に思います。
血がつながっていれば親子は当たり前のように家族になるけれども、じゃあ子どもに対して「隣る人」になっているか。親による自分の子どもへの虐待が増えている一方で、この「光の子どもの家」で暮らす人たちのように皆他人同士だけどお互いつながっている人たちもいる。
大事なのは家族という「形」ありきなのではなくて、いつも親の気持が子どもたちの「隣」にいることであり、家族という「形」は一緒に後からついてくる。そう思ったりもしました。
隣る人 ウェブサイト →http://www.tonaru-hito.com/
2012-5-27
カテゴリー:フィルム/こどもとともに