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#363

いま語りえぬことのために 死刑と新しいファシズム

辺見 庸 毎日新聞社 (2013)

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 死刑制度廃止は世界的な流れと聞きます。
 しかし、日本では廃止論が時々聞かれるものの、未だに国民の大半は死刑制度存続に賛成のようです。

 辺見さんは、ある友人の死刑囚からの手紙の黒塗りに違和感を覚えます。
 そこには、ただ上から黒く塗るだけでなく、目を凝らしてもそこに何が書いてあったか判別できないくらい、念入りに塗られていた跡。
 しかもそれは、何か社会的に悪影響を及ぼす記述ではなく、ごく私的なことを語る文章、しかもどうやら「俳句」らしいものに対して黒塗りがされている。

 死刑囚が「人」として認められていない。日本国憲法では検閲を禁止しているにもかかわらず、ごく私的な手紙でさえそれが行われている。
 死刑囚がその罪を償うことの、その他の部分において何も余裕を与えない。手紙についてだけでなく、死刑囚の暮らしそのものについても。
 そして死刑制度の存在根拠すら危うい。
 そのことについて疑問を伝えようとしないマスコミ、そのことについて知ろうともせず、あるいはそれが当然とまで思ってしまう私たち、そんな国民性から感じられる原ファシズム。

 そこから最近の政治の危うさへのつながりを指摘し、「新しいファシズム」と呼び警告します。

 この「死刑囚」に対して私たちが行ったこと。それが巡り巡って私たちにも降り掛かってこようとするのでしょうか。
 こうしてみると、すべてはつながっているということを感じます。
 死刑囚に対して私たちが「人として、個として見ることを怠ったこと」、そもそも私たちが死刑の存続を是とすること、それが実は普通に暮らしている私たちに対して政府が同じように私たちを管理し、私たちを政府の思惑通りにしようとすること許そうとしていることにつながっているのだと。

 「自分で撒いた種」という言葉がありますが、それを思い出したのでした。

2015-3-6

カテゴリー:日本の社会問題評論・エッセイ・ルポ

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