#113
キライバクダン
2013-9-1
1週間ほど前、ムスメが通う宮崎の保育園での行事に参加するため、8月最終週に夏休みを取って宮崎に滞在しておりましたが、保育園の行事以外に特に予定を決めておらず、宮崎にいる間に何をしようかと考えていましたが、ふと長崎に行くことを思い立ちました。
旅慣れた私たち夫婦は、急いで旅行にかかる費用の概算を出し、宿を予約し、長崎行きを思いついたわずか2日後には出発したのでした。
私は長崎には過去に2回ほど来たことがありました。
最初は約30年前、小学生のころ。両親に連れられて寝台特急「みずほ」に乗り、長崎・島原・阿蘇をめぐり、博多から新幹線で帰ったのでした。
2回目は約20年前、大学生のころ。当時自転車で日本各地を旅行していましたが、九州方面を巡るために山陰から自転車で入り、関門海峡を抜けて半時計回りに九州を回ったのでした。そのとき長崎にも立ち寄り、テント生活で旅行していたため長崎の高台にある公園にテントを張って泊まり、市内を観光したことを覚えています。
九州というのはどうも距離感がつかみにくいところで、私は宮崎から長崎は近いイメージがあったのですが、実は高速を使って車で片道6時間!
埼玉の私の家から遠い遠いと思っていた私の親の故郷・米沢へ行く時間よりも遥かに遠い。直線距離は近そうですが、ルートを見ると、最短時間のルートでさえも実際はジグザグ状に遠回りしているんですね。
不真面目クリスチャンの私は教会の多い街、長崎には特別な思いを抱き、九州に住むなら長崎だなとすら思っていました。
結婚して宮崎生まれのカミさんとの縁から宮崎に10年前から何回も行き来するうちに、同じ九州にある長崎にまたいつか行きたいと思っていましたが、なぜか実行せずにいたのでした。
最近読んだ「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」、「長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産」という本。
前者は、戦後しばらくして、原爆によって破壊された浦上天主堂を、広島でいえば「原爆ドーム」のごとく保存しようとする動きがあり、当時の市長も天主堂を残す意向であったにも関わらず、市長のアメリカ訪問の頃を境に天主堂の保存に否定的になり、結局は天主堂を撤去する、という不可思議な事情について調べたものです。
天主堂撤去にアメリカへの招致旅行が関係するのかどうかは結局のところ不明なのですが、謎解きのようなその本の内容からは、キリスト教の国アメリカが日本のキリスト教の聖地に原爆を落としてしまったことについて不都合を感じ何らかの処置を行ったとしても不思議ではないだろうと思わせられます。
そして後者は、瓦礫となった天主堂を撤去し、新たな天主堂を建設するまでの様子を収めた写真集。終戦数年後、破壊された教会の廃墟で無邪気に遊ぶ子どもたち、廃墟を人力で取り壊す人夫たち、木造で立てられた仮聖堂、そして新しく建てられた大聖堂。
そこからは、原爆により教会堂を破壊された悲しみよりも、新しく立て直していこうとする前向きさが感じられます。
そして、この浦上の地というのは、江戸時代に切支丹排除の政策のもと受けた4回の大規模な迫害の他、原爆投下の爆心地のほぼ真下だったこともあり、カトリック信徒にとって特別な意味を持った場所となっています。
ここが長崎に投下された原爆の爆心地。爆心に記念碑が建てられています。長崎平和公園内にあります。
記念碑の近くに移設された、原爆により破壊された浦上天主堂の壁の一部。
ちなみにこちらが現在の浦上天主堂。
聖堂内にあった「被爆マリア像」(レプリカ)。
木彫りの聖母マリア像が悲惨な姿となって頭だけが残っているのが見つかったもの。
被爆マリア像は平和を訴えるために日本を離れることもありました。
敷地内には、原爆により破壊された聖人像や建物の一部が痛々しい状態で残されていました。
迫害下で多くの殉教者を出しつつも地下で信仰をつなげるという途方も無い苦難の歴史の重みを抱えた「浦上」に触れる旅は、いつしか原爆の傷跡に触れる旅になっていました。
長崎に来たからにはぜひ来たかった「長崎原爆資料館」。
私は初めてでしたが、カミさんは「修学旅行で来たことがある」と言っていました。
そこに展示されていたのは、原爆で崩壊した鉄塔、橋、建物などの様々な施設、どろどろに溶けた生活日用品。
そして、荒野となった長崎市街、瓦礫に混じってあちこちに横たわる遺体、救援活動の様子、の写真パネル。
何これ何これと一つ一つについて尋ねるムスメに、「バクダンが爆発して熱くてみんなどろどろに溶けちゃったんだよ。」と答えていくと、「とーさん、これもどろどろになったの?」「これも?」「これもどろどろになったの?」
屋根瓦、びん、食器、電線、・・・
「バクダンで人はどろどろになっちゃうの?」
「バクダンが爆発したら、人はあっという間に無くなっちゃって、お空に行っちゃうんだよ」
「ヤダ、嫌いバクダン!怖ーい!」
さすがにムスメも、原爆の恐ろしさをうっすらと感じたようです。
原型を留めない日用品もインパクトがありますが、特に私が見入ってしまったのは、ドロドロに溶けたロザリオでした。
ロザリオというのは、大小の玉が輪に連なり先端に十字架が付いた、祈るためのアイテムですが、仏教でいうと数珠に近いものでしょうか。幸せや平和を願うために使うこともあり日用品以上に使う人の気持が染み付いたものであることは容易に想像できるだけに、原爆によりこのような悲惨な姿になってしまうことに、原爆の冷酷さが際立って見えてしまいます。
ついでに、この原爆資料館は建て替えによりずいぶんと博物館っぽくなっており、カミさん曰く「私が来た時はもっとおどろおどろしく恐ろしい感じがした。今の展示はさらっとしていてその悲惨さが伝わってこない。これはひどい」と憤っていました。
私は昔の展示を見たことがありませんので何とも言えませんが、もしかしたら恐怖心を煽る偏った展示から距離を置いて公平な立場で事実だけを披露するという方針に変わったのでしょうか。
私の時は広島や長崎は修学旅行には含まれておらず、広島はやはり大学生のころ初めて個人旅行で訪れましたが、これらの場所は、地上戦の行われた沖縄を含め、一度は訪れるべき場所ではないでしょうか。
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