私の行動を変えた神父の思い出話

ツブヤキ#220

 娘にとって「宿題を、翌日の学校の準備を、どうすればやる気になるか」というのはなかなか解決できない課題のようで、昨年5月から「今日中に宿題と準備をしなさい」と言うのをやめてから娘はだいたい登校直前に宿題と準備をするようになり、しかしそれが間に合わないと大騒ぎし、ずっと悪戦苦闘してましたが、さすがに2年生ともなるとある程度要領を経てきて登校直前でつじつまを合わせられるようにはなったものの、「嫌いなもの、面倒なものは後回しにしてしまう」ので最後にドタバタする状況はほとんど変わっていません。

 それでも、宿題だけでも前日に終わらせておけば朝の登校前に学校の準備はなんとかできるのですが、宿題を前日に終わらせられなくて登校前に宿題と準備をすると宿題が終わらないまま学校に行くこともあります。

 親としては、本人が選んだ道なのでそれでも構わないのですが、当の本人が納得しません。前日に宿題をやろうともしなかったのに、当日になって「宿題が終わらない、学校に行きたくない!」とか「一人で学校に行くの嫌だ!」と大騒ぎし、それならば前の日にやっておけばいいものをと思いますが、そんな論理は小学2年生には通用しません。

 娘に宿題をしなさいとは言いませんが、宿題をやりたくないけれどやらないで学校に行くのは嫌なので宿題を終わらせたいという気持ちがあるということが分かってきましたし、宿題をするもしないもあなたの責任という態度はさすがに小学2年生には冷たいかなと思い、やわらかく「宿題したほうがいいんじゃないの?」と言うことが多いですが、あまり効果はありません。

 親としては宿題が終わってなくてもきっぱりあきらめて学校に行ってくれればそれでいいのですが、それでも時々「宿題終わんない、学校に行くのはいやだー!」と泣き叫ぶので相変わらず辟易していたところでした。

 どうしたものかとずっと考えていましたが、ある日機会は訪れました。

 私が通う教会で、時々ミサの後に、子どもを持つ親を対象に神父がいろいろ話をしてくれます。

 先日は、キリスト教徒の務めとして、日曜はミサに参加すること、そして日常でもその気持ちを持続させること、などを語られました。その中で、家族で食事をすることの大切さについて、食事はただ食べるのではなく、ミサの続きと考えること、そうすることで家族のきずなが深まること、を話されました。

 その時に、神父が子どものころに家族で食事をした時の話をされました。家族皆で集まり、食事の始めに父がパンを分けてくれて、皆でいろいろな話をした、あれは本当に楽しかった、と、昔を振り返り嬉しそうな顔をして話をしてくれたのです。

 とてもいい話だな、我が家もそんなふうにしてみたいと思って聞いていましたが、宿題をする気が起きずいつまでも遊んでいる娘を前に、ふとなぜか神父がしてくれたその話を思い出したのです。

 そうか、宿題も楽しくできればいいんじゃないか?

 ではどうすれば?と思った時に、親子で一緒にやるのがいいのではないか、そう思いました。

 それで娘に、宿題一緒にやる?と聞いたら、目を輝かせて、やるやる!と言って来たのです。と言っても、出だしで一緒に問題を読んだり、ときどき娘がやる宿題を眺めて、分かんないと言われたらヒントを出してあげるだけですが、「親がそばで見守ってくれている」という状況が今の娘には嬉しいようでした。

 宿題だけではなく、他の場面でもこの神父の話を思い出すようになりました。
風呂の嫌いな娘に風呂に入るよう促すとき、散らかした部屋を片付ける時、など。

 そうしたこちらの誘い水が通用しない時もあったり、私自身がついつい小言を言ってしまう時もありますが、それはそれで結構。

 子どものころの温かい思い出が、娘が大人になった時の、大きな力や支えとなるように。

 そしてどうせなら、小さな子どもと一緒に過ごすという、人生の中でも短いこの期間を、日頃から楽しく過ごせるように。

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