ツブヤキ#221
大阪市内の、とある事務所。
指定暴力団の事務所に、カメラが入ります。
思わず、観ているこちらも、身構える。固唾を飲む。
映画だから自分の身には何も起こらないと分かっていても、息を潜めてしまう。
カメラは組員たちの行動をも追います。
時折投げかける撮影側からの質問にも、丁寧に答える。
これは何かととの問いかけにキャンプのテントと答える組員に、マシンガンではないかと質問すると、開けて見せながらテレビの見過ぎと笑って受け流す・・・
映画「ヤクザと憲法」。
ヤクザの日常を撮った、ヤクザ映画。
一般市民とさほど変わらない、日常の生活の姿に、どこかヤクザを「特別な人」という観念を持っていた私は、何だ普通の人たちじゃないか、と感じます。
ヤクザとそうでない人の境界線は一体どこだという疑問さえ浮かびます。
成人になってすぐに組に入った新人の青年。
ペンキ職人で家族もあったが給与未払いなどで仕事を辞め、絶望の中で組に救ってもらった中年男性。
そして組員の発砲事件でそれを指示したとして逮捕され、20年近く服役し数年前に出所した、約150人の組員をまとめる組長。
彼らが所属する「組」は「暴力団」とも呼ばれますが、映画での「暴力団」の普段の生活の様子から徐々に彼らが歩んできた背景が現れ、「社会からこぼれ落ちた人の受け皿」としての「暴力団」の存在が見えてきます。
平成3年に施行された「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(暴対法)。この法律により暴力団に対する監視や取り締まりが厳しくなります。と同時に、暴力団ではない一般市民同様の社会的サービスが受けられず、生活もままならなる実態が浮かび上がってきます。
銀行口座は解約される、子どもを保育園に入れられない、宅配業者が荷物を届けてくれない、保険に加入できない・・・
映画の最後で、困り果てた組員たちの現状を挙げて(それなら一層の事)選挙権などくれなくてもいい、とつぶやく組長に、撮影側は組を抜ける人が多くなると思いますが、と問いますが、返ってきた答えが今の日本社会の大きな欠陥を見事に言い表していました。
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排除したい者を排除したところで、その人たちはどこへ行けばいいのか。受け皿はあるのか。
彼らの一部から被害を被った人たちがいるのでしょう。そうしたことはあってはならない。
しかし、「社会に不安を与える」存在というだけで、彼らの人権を脅かす権利を誰が持っているというのか。
たまたま彼らの子として生まれた子供たちが大人と同様の制限を受けることが認められることなのか。
言いがかりのような理由をつけてでも検挙・起訴し、国に比べたらはるかにちっぽけな存在である「暴力団」を潰そうとする警察をはじめとする強大な国家権力の姿が、ヤクザ以上にヤクザに見えるのは皮肉でもあります。
一方で、私たち一般市民が排除したいと思っている、ヤクザ、そしてヤクザに限らず、元犯罪者やホームレスなど、社会の表で生活することがなかなか難しい彼らを生みだしているのは、実は私たち自身ではないかと、ふと思うのです。